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福祉がビジネスにすりかえられている



全国知的障害者施設家族会連合会(全施連)         会長  由岐  透

≪主 張≫

今、介護保険を中心にして盛んに福祉がサービスと位置づけられ、ビジネスモデルで語られはじめました。しかし、私たちは知的障害者の拠り所であり生活の場である施設が、それらと同様にビジネスモデルで語られることに強い危惧を抱いています

障害者自立支援法は親の願いをリセットした

知的障害者の多くはどんなに努力をしても、自分で家族を作ることはできません。その知的障害者が年齢とともに変化するとしても一生を通じて受ける介護・支援や相談(以下、「生活支援」と言います)が、今のような契約という形で施設との関係がビジネス的になることを想像したとき、親としては背筋が寒くなる思いです。
 私たちは、将来我が子が死んだ時に家族と同じような感情で泣いてくれる人たちに囲まれた生活をしてもらいたいのです。国の言う契約だとか対等な関係など、ビジネス的な匂いのする人たちであれば、きっと機械的に処理され、泣いてももらえないのではないかと心配しています。
 全国の知的障害者関係施設の90%強は社会福祉法人が経営しています。そのほとんどが知的障害者の福祉を何とかしようとして、長い歴史を重ね、私たち親の願いはもちろんのこと、多くの人たちの好意や善意によって施設を整備してきたものと思います。
 そして、特に入所施設を利用できるようになった親は、ホッとして我が命の永らえを覚えたことです。障害者自律支援法(以下、「自律支援法」といいます)は、一方的にその親の願いをリセットしてきました。
 私たち親の多くは、入所施設を通過施設とは決して思っていません。障害特性や環境により、施設生活は人に値する生き方、自立した生活ができる、かけがえのない家であり、「地域」であり、地域の「家」です。なぜ、終の棲家を入所施設に求めてはいけないのかが理解できません。

全国知的障害者家族会連合会についての若干の説明

先日、熊本県で27県の参加を得て「第2回全国知的障害者家族会連合会(全施連)」の総会が開かれました。本会は、各県の知的障害者の入所・通所施設及び共同作業所利用者の保護者会が連合したものです。
 私たちは、自律支援法に自分たちの思いや考えが反映されておらず、自分たちの声が届かないということから、施設等を利用している者の保護者として国や地方自治体に、大げさに言えば「命を懸けて」その思いや考えを伝えようとしています。

置き換えられた言葉

障害者が日常の生活を営むために受ける生活支援がいつの間に「サービス」という言葉に代わったのでしょうか。
 「福祉サービス」「サービスの提供」等々、最近、この「サービス」という言葉が気になります。辞書にはこの「福祉サービス」に相当する意味として、「物質生産以外の労働の総称、社会に有用な無形の生産」とありますが、「アフターサービス、スペシャルサービス、セルフサービス、テレホンサービス、モーニングサービス」のように、奉仕、接待、おまけ、割引などの意味で使われる「益」的な複合語と同じように使われているように思われます。
 本来は障害があるゆえに必要最低限の生活支援は障害者にとっては「権利」という意味を指しているのではないでしょうか。その「権利」がいつの間にか益的な「サービス」という言葉に置き換えられ、「サービス」だから「利用料を払え」と言われ出したのではないかと思えてしょうがありません。
 このようにして、自律支援法を読み込んでいくと、幾つもの言葉のマジック(置き換え・すりかえ)に突き当たります。
 例えば、「自立」という言葉。自律支援法での「自立」は、「施設から出て職業を得て生活の糧を自ら得ること」を意味しています。
 そのように置き換えられた「サービス」に対する利用者負担やあるいは「自立」も一般の国民が聞けば、「当然のごとく国民の義務」と思うのではないでしようか。くどいようですが、果たしてそうでしょうか。例えば、憲法に定められた「生存権」や「教育権」をサービスと言い換えられるのでしょうか。
 障害者にとって生活を営む上で、生活支援はサービスという部類でなく、生きるための当然の権利であると思います。そして、自律支援法はどこで、どんな濃密な支援を受けても、障害者が「主体的に生きる」という「自立」を否定しています。
 また、入所施設に代わる自律支援法下でのグループホームは本当に、社会へ溶け込み障害者にとって安全で快適な生活の場になり得るのでしょうか。今までと違って、障害程度区分3以下の障害者は、入所施設を利用できなくなり、(自宅以外では)特別な理由がない限りグループホーム(ケアホーム)しか利用できないことになっています。こんな理不尽とも言えることがあっていいのでしょうか。

自己選択と自己決定はどこへ行ってしまったのでしょう

自律支援法では、自己選択と自己決定がなくなりました。仮に福祉がサービスとなったとすれば、サービス商品は客が選べるはずです。サービスと言いながら、大事なところでは客が選べない仕組みとなっています。例えて言えば、カレーライスを食べたいのに、「あなたはチャーハンしか選べませんが、海老チャーハンか卵チャーハンかは選べます」と言われているのです。これで本当に選択と言えるのでしょうか。
 権利として、障害者に自己選択と自己決定権の復権がどうしても必要です。
 介護給付サービス、訓練等給付サービスなどの十分な説明を受けられる機会とそれを選べる権利を保障していただきたい。
 そして、日割り方式になって以降、朝になってみないと通所する気になるのか否かがわからない通所施設利用者、毎日は難しいが週に2日ぐらいは親として家に帰らせたい入所施設利用者などは、今後、施設から敬遠されることになるのではないかと心配しています。
 選択もできない、使いづらい、利用料は取られる、そして使えなくなる、どう考えても自律支援法は福祉の意味合いを持っていません。

親も施設も悪者になっている

我が子らは、自分の能力や親の老いをはじめ経済的、家庭的な状況がわかりません。その子らに問いかけて、養護学校の卒業生の55%が福祉施設へ、授産施設利用者の41%が企業で働きたいという集計結果をもって「働く意欲のある障害者が必ずしも働けていない(厚生労働省)」と言って何の意味があるのでしょうか。 同時に我が子らが働くことに賛成(積極的)している家族は29%、反対(消極的)している家族は71%もいると言っています。
 もし、この資料を基に「働きたいと思っている我が子らの足を引っ張っているのは、家族(親)である」と言いたいのであれば、横を向いて言うのではなく、私たち親に面と向かって言って下さい。71%の親がなぜそう考えるのかを説明します。
 自らの労働条件の改善を訴えることの難しい知的障害者の「働く」ということや、雇用先の問題を検討しないまま、国民に「働く意欲のある障害者が必ずしも働けていない」原因が親や施設にあると思わせるやり方に憤りを感じます。

最後に

自律支援法が障害者福祉の理念を根本から変えてしまったことは、もちろんのことですが、「サービス」「地域」「障害者が働くということ」等々の福祉用語をしっかりとしないまま、福祉関係者をはじめ多くの人たちが、国の戦略?に乗っかって日常的に使っていることに強い危機感を持っています。
 笑い話になりますが、利用者負担額の決定に伴って多くの入所施設利用者は、住所を施設に移しました。それでも、「施設から地域へ」なのでしょうか?
 私たちが施設を語るとき、利用者への暴力や暴言は論外として、午後2時ごろの入浴一日中パジャマ姿、強制労働的な作業、閉鎖的な環境の施設を肯定しているわけではありません。保護者としてまずして欲しいことは、施設の「解体」ではなく、十分な職員配置がされた上での施設の「あり方」の検討なのです。また、健康や命を守れる一定の水準を持ったグループホームであれば決して否定するものではありません。
 私たち親としては、施設に「家族の絆」としての契約を締結したいと考えています。

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